梅が咲くころには

今夜は母方の祖父の通夜だった。

ばあちゃんは、思うようには動かないからだなのに、じっとしていられずホールを歩いていた。「大丈夫?」と聞いたら「じっとしてると忘れそう」と言った。
細雪のような四姉妹は、死装束の父親を前にして、誰一人ボロボロと泣くことなく気丈だった。背筋を伸ばして自分たちの父親を見つめていた。
長女のおばさんは、ばあちゃんを支えながら、各所に挨拶をしたり忙しなく動いていて、すごく集中しているように見えた。

(わたしはというと、お坊さんがお経を読み上げる一番大切なところで、自分史上最強レベルの埃が喉に張り付いたため、お経中ほとんどお手洗いの個室に閉じこもって、咳をしては咳に一本釣りされた仕出し弁当の中身を吐いた。お坊さんのお経を邪魔するには十分な音量だったということだった。)

開式の前、わたしと妹は何となく立ち話しをした。
妹が「じいちゃん、おもしろくて大好きだった。よく面倒を見てもらったのに、大人になって疎遠になってしまった」と言って、すうっと涙を一筋流した。

水戸市の北の方にある農業地帯「くにた」が母の実家だ。田んぼと畑と虫と那珂川しかない。
じいちゃんとばあちゃんが納屋で農作業をしている横で、幼い妹とわたしは、分銅を使った計量器に乗ってお互いの体重を計ったり、作物の出荷籠であろう籠に妹を入れて、それを台車に乗せて庭を走り回った。
「荷台に乗りたい!」という孫の要望どおり、じいちゃんは軽トラックの荷台にわたしたちを乗せていろいろなところに連れて行ってくれた。
一面真っ青の田んぼの中を走った。わたしたちの間をすごいスピードで抜けていく風は気持ちよかった。煙りの匂いがして、お盆の迎え火がところどころで紅くゆらゆら揺れていた。
じいちゃんは夏は必ず、白いランニングにステテコ姿で野球中継を見ながら酒を飲んで寝ていた。
「またこんなところで寝てえ!!!」と長女であるおばさんから怒号が飛ぶのが盆の夜のお決まりだった。
じいちゃんの赤く日に焼けた顔と首、骨の形がわかる細く長い手と対照的に、テレビの光で浮かび上がる、ランニングからのぞく肌の色の白さがいつもわたしの目を引いた。


妹の言うように、わたしもじいちゃんが大好きだった。でも言葉で伝えたことはなかった。
大人になってからは敬老の日に贈り物をすることでとりあえずやってる感を出していた。伊勢丹からフルーツを贈るだけで、何かやってる気になっていた。
今年はお正月に遊びにいくことさえもパスしてしまった。
危篤の知らせを受けた時はインフルエンザで動けず、さよならも言えなかった。


たくさんの大好きな楽しいことを考える。
これからやらなくちゃならないつらいことを考える。
じいちゃんに二度と会えなくなったことが遠くに思える。
たくさんの美しいものを見に出かける。
自分の好きなように生きる。
じいちゃんに何もできなかったことも遠くに思える。

でももうわたしは知っている。どんな大きな楽しみや喜び、苦悩があっても、じいちゃんを亡くした悲しみは特別で、きっとこれからも新鮮な痛みとしてここに残る。
じいちゃんと過ごした遠い昔の時間を、鮮明に、色や匂いまで、きのうのことのように思い出せるのだから、じいちゃんを喪った悲しみも変容することなくずっとここにある。これから毎年梅が咲くころには、きっときょうと同じに、悲しむ。

わたしは不出来な孫のままだったけれど、じいちゃんは最高だった。

明日の告別式ではお坊さんを怒らせるような咳込みをしないように万全を期したい。

最高のパートナーの誕生日に寄せて

夫が三十三歳になった。五日後にはわたしも三十三歳になる。

二〇〇六年から付き合い始めて、二〇〇九年に結婚した。十年以上、二人で一緒に暮らしている。

大学卒業後にきちんと就職をしていた夫が借りていた武蔵小杉の1Kに、二〇〇七年、大学卒業後に高学歴無職となったわたしが転がり込んだ。わたしは情緒不安定で主に泣き喚いたりしていた。
二〇〇七年の夏、わたしが働き始めて、二人で初めて借りた中目黒の古いマンションは、背伸びをした街に住む代償としてゴキブリ軍及び湿気、尊大な不動産屋と闘った。わたしはここでも主に泣き喚いていたり、勝手に働きすぎて潰れて仕事を辞めたりした。
二〇一四年、わたしが超安定団体に転職したのを機に、三宿近くの今のアパートに引っ越した。ここは五階で見晴らしが良くて、朝には寝室に朝陽が満ちるし、夜になると小さく赤い東京タワーや羽田空港に離着陸する飛行機の強い光が見える。ベランダでは野菜を育てたり、椅子に座ってぼんやりしたりする。
しかし、わたしはここでも自分の狭量なキャパシティーを超えるオーバーワークで勝手にがんばっちゃってパンクして超安定の仕事を辞めるところだ。

それでも、どんなときも、夫はわたしのとなりにいる。
リアリストで真面目な夫は、わたしがすぐ泣き喚いたり、自己管理できずに働きすぎて仕事ができなくなったりすることが理解できないと思う。夫だったらそんな事態にはならないし、そうなる前にきちんと手を打てる人だから、わたしのめちゃくちゃな生き方は不快ですらあると思う。

それでも、どんなときも、夫はわたしのとなりにいる。
理解できなくても、わたしのことをそのまま受け入れて、必要な知恵(失業保険や傷病手当金の申請から工程管理の大切さやエクセル関数まで常識的なことの多く)を与えてくれる。
わたしがおかしくなると、わたしには見えないところでわたしの両親に連絡をしたりしてくれているのを知っている。

先日、開化堂で銅の茶筒を買った。これから二人で茶筒の色の変化を見ながら暮らしていきたい。
開化堂では創業当時の百四十年前の茶筒を見せてもらった。時間の溶け込んだ、渋い黒い茶筒だった。わたしたちはふたりの茶筒を百四十年も見守ることはできない。できて三、四十年だろう。
あと、たった三、四十年で夫とのこの日々が終わってしまう。信じられない。

春は、息が白く漂う早朝に目黒川沿いの満開の桜のトンネルを歩く。自販機でカフェオレの温かいのを買う、色白の夫の鼻の頭と耳たぶが紅くなる。
夏は、三軒茶屋の赤鬼で絶品のとうもろこしの天ぷらを食べる。この季節限定の赤鬼PBの十四代の甘い日本酒を飲む夫はご機嫌に見える。
秋は、東京国際映画祭のために六本木に通ってコンペティション選定担当者の顔を毎日見る。夫はコンペ作品がつまらなかった時は、つまらないとは言わずに「(その担当者と)映画の趣味が合わない」と言う。
冬は、何十億年も前の星の光がふりそそぐ中で雪見風呂に浮かぶ。マッサージ師には必ず「何かスポーツしてるんですか?」と聞かれるほど恰幅のいい夫は旅館の浴衣が似合う。夫は時々思い出したように「痩せたい」と言うが、絶対にベン・アフレック方面に舵を切った方がモテる。

「わたしたちが死んだらこの茶筒どうしよう?」
「譲る人もいないしね」
「終わっちゃうね」

そんな話をした。
終わることは怖い。
いつか終わってしまうまで、どうかよろしくお願いいたします。お誕生日おめでとう。

まみさんのせいにして寝ている

    毎日「雨宮まみ」で検索をしている。まみさんと親しかった人、仕事等で関わったことのある人、わたしみたいな読者、いろんな人がそれぞれの悲しみ方で悲しんでいるのを見て泣いている。悲しさを癒してくれる人はもういないから、みんな悲しいまま一所懸命に生きている。生きようとしている。

    わたしは泣きながら一日中寝ている。たまにドライヤーのコードで自分の首を思い切りしめている。力がなくて全然しめられない。夜には睡眠薬を飲んでわけがわからなくなってからSNSに意味不明なことを投稿して意識を失う。目が覚めてからゾッとする。

    正直に言えば、まみさんが生きることを選ばなかったこの世界はもうどうでもいい。

    わたしは自分で思っていた以上にうまく生きられないどころか普通にも生きられないし、まみさんはいなくなってしまったけどまみさんが生前に闘っていたように、前を向いてしっかりと自分の足で生き抜こうなんて思ったそばから「やっぱ無理」と布団に入るような人間だ。

    今さら自分らしく生きるなんて、リセットボタンのない無理ゲーだ。わたしにはできない。赤い口紅は似合わない。姿勢も最悪に悪い。傷ついた人に寄り添うどころか、健常な人にもたれかかって健常な人の手脚をもいでしまう。

    わたしは、まみさんの文章に、言葉にいちいち救われてきたのに、何一つ自分を良い方向に変えられてこなかった。まみさんの全てに憧れていたのに、ひとっつも近づけていなかった。まみさんが超本気で書いて、伝えてくれたことはわたしにとって何だったのだろう。何も残ってないのに、なんでわたしは泣いているんだろう。

    まみさんの訃報が流れた夜、わたしは泣きながら夫にこう言ったのだ。

「死にたかったはずない。生きたかったはずだから、わたしはがんばって生きる」

 

    わたしは嘘つきだ。死ねもしないし、生きられもしない。

    

まみさん

    雨宮まみさんが死んでしまった、という。

    いつも通り、朝になっても布団の中から出られずにぐずぐずして、時計を見たら正午を回っていたのでiPhoneを手にした。手っ取り早く頭を回転させて眠気を吹き飛ばすために、わたしは寝起きにtwitterを確認する。

    適当に必要な情報を、下から上へと次々にスクロールして流していく。ふと、「雨宮まみ」という文字が目に入ったのでスクロールする手を止めた。楽しみにしている連載が更新された知らせかなにかだと思った。しかし「雨宮まみ」の次に並んでいたのは「死去」という文字列だった。

    誤報だと思った。すぐにまみさんか、誰か親しい人が「は? 生きてますけど」と反応するはずだと思って、わたしはtwitterをずっとリロードし続けた。

     リロードしているうちに、涙と嗚咽が止まらなくなった。次に吐き気が襲い、わたしは寝室から洗面所まで這いつくばって向かい、吐けるものなど何もないのに何度も吐いた。吐き疲れてそのまま座り込んで、声を上げて泣いた。

    『女子をこじらせて』でまみさんに出会ってから、まみさんはいつもわたしの前に立っていた。まみさんは、遠く後ろで転んでもたもたしているわたしに、笑顔で手を振り、「大丈夫」と手招きをしてくれた。わたしはその強くて美しく、誰よりも優しい女性の背中を追いかけていた。

    憧れていた。尊敬していた。というよりもたぶん、まみさんは、わたしの心のとても親しいともだちだった。

    生きることは、当たり前じゃない。まみさんは言っていた。

    まみさんは、"当たり前"に押しつけられるもの全てと闘っていた。自分が生きるために、命を削って書いていた。わたしはその、まみさんが心を減らして書いた文章に、紡いだ言葉に、何度も救われてきた内のひとりだ。

    自分が自分として生きるために闘い、書き続けてきたまみさんが死んでしまったなんて、わたしにはやっぱり信じられない。

    また連載は更新されて、新しい本が出るはずだと思う。だって、今もわたしの心のすぐ隣に、まみさんがいるから。そっちの方が信じられるから。


    まみさん、どうしよう、悲しくてたまりません。